屋形に残るもの

※AI生成のイメージ画像です

戦国時代の屋敷跡

カマヤのグロ

屋形バイパス沿いの​少し​西に、​「カマヤの​グロ」と​呼ばれる、​小さな​藪が​あります。

東西およそ​60メートル、​南北50メートル、​高さ2メートルの​土塁​(どる​い)で​四角く​囲まれた、​ただの​藪に​見える​その​場所は、​実は​戦国時代の​屋敷跡。

言い​伝えに​よれば、​ここに​身を​寄せていたのは、​播磨守護・赤松政則の​継室・洞松院​(どうしょう​いん)。​細川勝元の​娘である​彼女が、​病気の​静養の​ために​この​地で​時を​過ごした​と​伝えられています。

土塁は、​敵からの​防御の​ために​屋敷の​周囲に​築かれた​もの。​「カマヤ」と​いう​名前自体、​本来は​「構え屋敷​(か​まえや​しき)」の​「構え​(かまえ)」が​訛った​ものと​考えられています。

兵庫県下でも、​これほど​完全な​形で​土塁が​残っている​例は​少ないとされる、​屋形が​守った​戦国の​記憶です。

Google Maps →

※AI生成のイメージ画像です

アーチが語る、昭和の橋

屋形橋

昭和八年​(1933年)、​屋形と​鶴居の​間に、​新しい​橋が​架けられました。​鉄筋コンクリート製の、​アーチ式と​呼ばれる、​当時もっとも​斬新な​デザインの​橋です。

全長​139.1メートル、​幅5.5メートル。​総工費は​5万円。​橋を​吊り下げる​ための​アーチが​二つ取り付けられ、​現在も、​そのうちの​一つが​残っています。

工法も​最新の​もので、​橋脚を​築く​ときは​潜水夫​(せんすい​ふ)が​川に​潜って​工事を​行った​そうです。​それが​珍しさを​呼んで、​見物人が​大勢押し寄せたと​いいます。

橋の​欄干​(らんかん)には​鉄格子が​嵌(は)められ、​橋や​川の​名を​彫った​立派な​銘板や​モニュメントも​備えられていました。​けれど、​第二次世界大戦中、​それらは​軍需物資と​して​供出されてしまいました。

2025年​(令和7年)、​「施工例の​少ない​戦前の​鉄筋コンクリートタイドアーチ橋」と​して、​土木学会選奨土木遺産に​認定されました。

Google Maps →

※AI生成のイメージ画像です

夜光石が、神社になった

石神神社

屋形集落の​東、​播但道の​すぐ​下に、​石神神社​(いしが​みじんじゃ)が​あります。

神社の​起源は​いつ頃なのか、​はっきりとは​分かりません。​けれど、​現在の​本殿が​承応三年​(1654年)に​造立された​ことは、​棟札​(むな​ふだ)に​よって​知る​ことができます。

この​神社には、​不思議な​伝説が​あります。

昔、​屋形の​奥谷に、​毎夜、​怪光​(かい​こう)を​放つものが​ありました。​あやしい​光が、​毎晩。​村人た​ちが​これを​探し出した​ところ、​拳ぐらいの​大きさの、​夜に​光る​石だったと​いいます。​蛍石​(ほたるいし/フローライト)の​類いではなかったかと、​今では​推測されています。

そこで​祠​(ほこら)を​建てて​この​石を​安置し、​「石神」と​呼ぶようになりました。​それが、​この​神社の​はじまりです。

不​思議な​石を​祭ってからは、​村の​中に​疫病が​流行する​こともなく、​五穀豊穣に​恵まれ、​屋形は​発展していきました。

ところが、​いつの​頃からか、​御神体である​夜光石は、​なくなっていました。

盗んだ人は​天罰を​受けただろう​——と、​語り​伝えられています。

Google Maps →

※AI生成のイメージ画像です

太平洋を越えた、屋形の僧

宝樹寺

屋形の​小さな​寺、​宝樹寺​(ほうじゅじ)には、​太平洋を​越えて​広がった​物語が​あります。

第20代住職を​務めた、​上野泰庵​(うえの​ たい​あん)。​1903年​(明治36年)、​曹洞宗から​南米初の​布教師と​して​派遣され、​英国籍の​移民船​「Duke of Fife​(デューク・オブ・ファイフ)」号に​乗って、​神戸から​ペルーへと​渡りました。​一ヶ月以上の​航海の​末に​たどり着いた​地で、​上野泰庵は、​現地の​日系移民への​布教活動を​始めます。

四年後の​1907年。​サンタ・バルバラの​耕地に、​ペルー初の​日本仏教寺院が​建ちました。​翌1908年、​永平寺・總持寺の​両大本山から​「泰平山 慈恩寺​(たい​へ​い​ざん​ じ​おんじ)」の​山号寺号が​授けられ、​寺に​附属する​「サンタ・バルバラ日本人​小学校」も​開校されます。​ペルー初の​日本人学校。​上野泰庵自身が、​その​初代教諭を​務めました。

ペルーで​十四年間の​布教を​終え、​上野泰庵は​1917年に​帰国。​宝樹寺の​住職と​なりました。

その後、​慈恩寺は​後継の​住職たちに​引き継がれ、​移転を​かさねて、​1977年から​現在の​地に​あります。​2017年には、​開創110周年の​法会​(ほう​え)が​営まれ、​曹洞宗から​大梵鐘​(だい​ぼんしょう)が​寄贈されました。​法会には、​ペルーの​ほか、​アルゼンチン、​コロンビア、​ブラジルからも​参拝者が​集まったと​いいます。

今も​ペルーの​日系人に​とって、​慈恩寺は​お盆や​彼岸に​手を​合わせる、​心の​拠り所と​なっています。

播磨の​小さな​村から、​太平洋を​越えて、​ひとりの​僧侶が​運んだ​仏教の​灯(ともしび)が、​ペルーで​今日も、​そっと​灯っています。

Google Maps →

※AI生成のイメージ画像です

毎年 8月23日・24日

屋形地蔵盆

地蔵盆は、​子どもを​病気や​災難から​守る、​地蔵菩薩の​縁日。​子供たちが​中心と​なって、​集落の​入口や辻に​ある​地蔵尊や​祠を、​提灯で​飾り付け、​団子や​お菓子を​備えてお祭りします。​中でも​特に​有名なのが、​屋形地区の​地蔵盆です。

屋形では、​上組・中組・下組の​三か所で、​地蔵尊が​祀られています。

上組地蔵堂の​石仏には、​「享保十年​(1725年)​正月」と​刻まれています。​今から​約300年前の​もの。​かつては​石室の​中で​祀られていましたが、​1941年​(昭和16年)に​現在の​霊堂が​建立されました。

最初は、​北の​上組一か​所だけでした。​けれど、​住居が​増えるに​つれ、​集落の​南に​ある​地蔵坐像​(建立年は​要確認)と​合わせて、​南北二か所で​祀るようになりました。

さらに​大正七〜八年​(1918〜1919年)​頃から、​峠の​自然石で​できた​自然地蔵像を​——昭和二十年​(1945年)に​変更した​ものを​——中組と​して​迎え、​ここで​祭りが​始まりました。

8月23日・24日の​二日間、​屋形は​盛大に​地蔵祭りを​迎えます。​沿道には、​笹ちょう​ちん​や​ぼんぼり。​軒先には、​直径40センチ・長さ70センチの​大きな​提灯。​盆踊り、​福引——賑やかな​夏の​夜の​祭りが​繰り​広げられます。

そして、​お祭りの​終わる​24日の​夜11時頃。

上組の​地蔵堂の​前で、​大きな​数珠の​輪が​作られます。​般若心経を​唱え、​南無阿弥陀仏と​唱えながら、​頭上を、​大数珠が​送られていきます。

数珠繰り​(じゅずくり)は​京都に​発する​伝統で、​108の​珠は、​人間の​煩悩​(欲望・執着・怒り)の数。​数珠を​繰る​ことで、​それらを​払い、​心身を​清めると​されています。

順々に​南下して、​中組、​下組の​地蔵尊にも​参詣。​数珠の​中の​大玉を​迎える​ごとに、​健康を​願って、​頭に​いただきます。​屋形のように、​大数珠を​頭上へ​送りながら​順々に​南下し、​大玉を​迎える​ごとに​頭に​いただく​形は、​全国的にも​稀な​慣わしです。

下組の​地蔵尊前で、​祭りを​終わり、​家へと​帰ります。

Google Maps →